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結城家埋蔵金の源 |
![]() (ユネスコ世界文化遺産登録の平泉金色堂) |
結城城のその後 |
「結城城」の御殿(書院)、御台所、太鼓櫓、築地三筋塀、鐘、
下馬札等は、武州鴻巣(現・埼玉県鴻巣市)
の「勝願寺」に寄進、移築された(慶長6年(1601年)とあります。 移築された「御殿」は、檜皮葺、大入り母屋破風造りで、 中は百十四畳敷きの大方丈(長押には金の葵御紋が貼りつけられたことから金の間と呼ばれ)、九十六畳敷きの小方丈 (長押に銀の葵御紋が貼りつけられたことから銀の間と呼ばれ)に分けられ、それはそれは大規模なものだったということです。「金の間」は「御成の間(おなりのま)」とも呼ばれ、 「将軍」が御成の際に使う部屋で、通常は使用が禁止されていたということです。 |
「御台所」は「庫裏」として客間、応接間、僧の居室などがあり御殿よりも大規模な建物だったと言われます。 「太鼓櫓」は手を加えて仁王門として利用されました。 「鐘」は、結城の「華蔵寺(花蔵寺)」のものといわれ応永2年(1395年)鋳造といわれます。 「下馬札」は中山道に面した参道に柵が廻らされその中に立てられました。越前加賀の「前田」家では、『「参勤交代」の道中の際、この札を見落とし、 下馬せずに山内に入ったため「宿舎」を断られ、北本の「法要寺」に急遽頼み込み、宿を確保できた。』ことにより法要寺の「紋」を前田家と同じ紋とすることを許可したとあります。 |
勝願寺は、徳川家康が鴻巣に「鷹狩り」のため訪れた文禄2年(1593年)、二世住職円譽不残上人に深く感銘を受け帰依したことから、その後も何度も訪れておりそのことから寄進されたものであり、 寺の紋は「葵」の紋が許されています。(ちなみに、結城にある「弘経寺」も「葵」の紋であり、こちらは、結城秀康の姫「松姫」の菩提を弔ったことにより許されたということです。) 鴻巣の地は、関東代官頭(幕府直轄領などを治める代官の総取締役)伊奈氏の領地であり、当然「鷹狩り」には随行しており、「結城城」の取り壊しを担当したのもこの「伊奈氏」であったのです。 これらを考え合わせてみると、「結城城」の規模もかなりのものだったことが想像され、それを造り上げた「結城氏」の「隠れた財力」が想像され、「蓄財されていた・・」と考えられたのでしょう。 「勝願寺」の建物などは、明治3年の竜巻と明治15年の火災により失われてしまいました。 この後(結城城廃城後)、約百年間は、結城は「幕府直轄領」となります。 元禄十二年(1699年)水野隠岐守勝長が一万八千石で結城藩主となり、新たに築城入封し、明治四年(1872年)廃藩置県により「結城藩」がなくなるまで続きます。城は、戊辰戦争の時に焼失したといいます。 |
日本三大埋蔵金 |
日本全国に「埋蔵金」伝説が存在するといわれています。中でも、「徳川埋蔵金」「豊臣氏埋蔵金」「結城家埋蔵金」が「日本三大埋蔵金」と呼ばれています。 「結城家埋蔵金」とは、下総の国結城(現茨城県結城市)に居城を構えた「結城朝光」が奥州合戦時の褒美として貰い受けた財宝を(一説には金の竿がね、等、現在に換算して数千億?とも) 十七代結城晴朝が越前福井に移る前に、腹心の部下、膳所主水に命じ、何処かに秘かに隠したものといわれます。 |
埋蔵金発掘 |
(緩やかな丸みを持つ三日月橋) ![]() ![]() (一枚板に丸みを持たせた橋面の削り) ![]() (橋床を支える脚部) ![]() (まあるく削られた欄干手すりと・擬宝珠) ![]() ![]() 【画面をクリックしてください。拡大画面を見ることができます。】 |
参考文献等
○ インターネット「中尊寺」ホームページ
○ インターネット「勝願寺」
○ インターネット「結城朝光」
○ 「結城市史・古代中世通史編」
○ 「結城使行」